♪管理人ジャイアントが、高校時代から大学卒業(1994~1999)までの音楽活動を、当時の音源と共にしみじみと振り返ってみました。


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BONBONS
1999

(22歳、ギター歴7年頃)


(2006/7/13)

■■ NO.7 ■■

「ボンボンズ」は、僕の大学時代最後の音楽活動だった。
とはいっても、特にたくさんの思い出があるわけではない。

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所属していた音楽サークルの溜まり場で、いつものように適当な話題で盛り上がっていて、何かのはずみで後輩の女の子が「私に歌詞書かせてくださいよ。私がデモテープをプロデュースします!」とかなんとかいったので、「じゃあやろう」ということになった。
1週間ぐらいで曲を書いて、歌メロの部分をギターで弾いたものをMDに録音して、その子に渡し、歌詞をつけてもらった。
次に、誰か適当な「ボーカルをやってみたい」という子を捕まえて、3人でスタジオに入って、ボーカルトラックを録音して、それでおしまいだった。
せっかくだから、もう一回ぐらい何か作ってみようということになった。
前回と同じように、一週間程度で3曲書いて、それを「プロデューサー」の女の子に渡し歌詞を書いてもらい、今度は別のボーカルの女の子を捕まえて、3人でスタジオに入って、ボーカルトラックを録音して、それでおしまいだった。

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この頃になると、僕はレコーディングの作業そのものに、ちょっとこなれてきていて、仕上げる速度が早くなっていた。
また、録音がスムーズに終わるように、最初から意図してシンプルな曲を書いた。
ぱっぱとやって、すぐに完成した。

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そんな感じだったけれど、曲や演奏は結構安定してるし、また、その「プロデューサー」の女の子が書く歌詞がユニークだったので、すごく楽しい作品になったと思う。「コードネーム アシュラ」という曲の歌詞は傑作じゃないかな。

この「コードネーム アシュラ」が、僕の大学時代最後のレコーディング作品となった。




PETER MAN
1998~

(21歳、ギター歴6年頃)


(2006/7/12)

■■ NO.6 ■■

大学も三年生に進級し、「とにかくハード・ロックをやりたい!」と、切実に考えるようになった。
音楽サークルの新入部員の中から、上手そうな子に声をかけ、先輩権限で無理やりつきあってもらって演奏したバンド、それが「ピーターマン」だ。
僕が一人が三年生、あとの全員は新一年生。
このメンバー構成を見てもわかるように、最初からある程度、バンドのサウンドを自分でコントロールすることを考えていた。
とても大人げないが、僕は何が何でもハード・ロックがやりたかった。

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バンド名の由来については、こういういきさつがある。
「バンド名は何がいい?」とメンバーの後輩に聞いたところ、「ピーターパン」という答えが返ってきた。「メタルバンドなんだから、もっと男らしい名前にしてくれよ」と言ったら、「じゃあ、ピーターマン」と言われた。
バンド名は、それで決定になった。

このバンド名の名付け親は、キーボーディストで、浅倉大介や小室哲哉に傾倒していた。
バンド構成は、キーボードを入れた5人組だったが、5人中3人は、ハード・ロックを聴いたこともないし、興味もない人たちだった。
唯一、ボーカルはHR
/HMを通過していたが、本業はドラマーであって、ほとんど冗談で「歌ってもいいですよ」と言ってくれただけに過ぎない人だ。
(彼は、自分の歌唱力に自信があるわけでも、歌うことが好きなわけでもなんでもなかった。単純に「歌う人がいないならやってもいいですよ」と言ってくれただけの、先輩思いの後輩だ)
そんな感じだったので、バンド全体のモチベーションは、決して高いとはいえず、僕だけがヤル気満々という状態だった。
バンド内における「温度差」はあきらかで、また、学年の違いのせいもあり、僕は一人、浮いていた。

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このバンドは、僕にとって、ちょっとした孤独との戦いだった。
他のメンバー全員は、やりたくてやっているわけではなかったので、いつ「辞める」と言い出すかわからない状態だった。
僕は、バンドのサウンドをコントロールしようとはしていたが、それは、絶対的な権限を持ってイングヴェイの様な立場から命令できたわけではなかった。
「お願いですから、こうやって弾いてください」と頼みこんでいたのだ。
しかし、そうでもしなければ、すでに「洋楽志向のハード・ロック・バンド」などというのは、時代的に成立が難しかった。

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そんな状況で、一人で黙々と「ハード・ロック」な曲を書くという作業は、ちょっと切なかった。でも、大学を卒業してしまったら、時間を湯水のように使って音楽で遊べる機会はもうないかもしれないという予感があった。
だから、そうなる前に、自分がギターを始めた頃に憧れていたMSGやオジー・オズボーンのサウンドに近い、「とことんハード・ロック」なデモテープを作りたかった。
とにかく頑張った。
その甲斐あって、「ROCK’N ROLL AGAIN」は、サークル内での僕の代名詞ともいえる曲になった。
このバンドのデモテープは、今聴いても、誇りに思えるところがたくさんある。
そういった意味で、協力してくれた後輩には、本当に感謝しきれない。




RADIONIX
1997~

(20歳、ギター歴5年頃)


(2006/7/12)

■■ NO.5 ■■

「ラジオニクス」のボーカルのツチドくんは、僕と同学年で同じ音楽サークルに所属し、よく一緒につるんでいた。

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少し話が飛ぶが、僕は東京に来るまで、自分で洋服というものを買ったことがなかった。
母親が買ってきたものを、そのまま着ていたのだ。
都会の人は驚くかもしれないが、僕たちの年代の田舎の高校生や中学生の男の子は、みんなそんなものだったんじゃないかと思う。
少なくとも、僕の田舎ではそうだった。洋服なんて、どうでも良かったのだ。

ところが、大学に入学して東京に来て、そのファッション文化にたまげてしまった。「下北?古着?なんだそりゃ?」
という感じだった。
なにはともあれ、「これはマズイ…」ということで、自分改造計画を考えるのだが、当時の僕は、一人で洋服屋に入るのも恥ずかしいと思うぐらいシャイだった。
店員に話かけられたりしたら、緊張して何も喋れなくなってしまうほどだった。
さらに、僕は極度の方向音痴で、一人で知らない街を歩くことなど、到底できなかった。
さて、一方のツチドくんは、とてもオシャレで、洋服にもとても気を使っていた。
そして、ここが一番重要なのだが、ツチドくんは、人を安易に馬鹿にしたりしない性格だった。
そんなわけで、おのぼりさんの僕は、ツチドくんに洋服を選ぶイロハを教えてもらったり、東京の道案内をしてもらうことになった。
ツチドくん以外にも、色々な人に「東京文化巡り」の案内をお願いしたのだが、ツチドくんはとても親切で、また、お互い議論好きというところでウマがあったので、かなり頻繁に一緒に遊んでいた。

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仲が良くて同じ音楽サークルに所属しているのだから、普通であればすぐに「音楽でも一緒に何かやろう」ということになるのだが、ツチドくんはポップス好きで、メタルなんて聴いたことがない人だった。
ツチドくんは、スパイラル・ライフやスピッツのようなバンドが好みだった。
また、ツチドくんは、ミュージシャンというよりかは、どっちかといえば、評論家のような感じのスタンスだったので、熱心に楽器を練習するだとか、曲をたくさん書いていたわけでもなかった。
ただ、音楽はとても詳しかったし、自分なりの「ポップス美学」というものを、ハッキリと持っていた。
僕は僕で、入学当初はメタル以外に全く興味がない状態だったので、ツチドくんとは、音楽的な接点がなかった。
そのため、一緒に遊んだりはしても、バンドをやったりすることはなかった。

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そんな僕たち二人がなぜバンドをやることになったのか、その契機はよくわからないが、大学二年の終わりぐらいに、一緒にやってみようということになった。
二人の活動は、まず、お互いの価値観をすり合わせることから始まった。
ツチドくんも僕も議論好きだったので、曲作りの作業は、かなり白熱したものになった。
まずは、ツチドくんから色々なCDを聴かせてもらって、「この曲のどの部分の何がどう良いのか」ということを、細かく説明してもらった。
そういった概念をもとに、僕がギターのアイディアを出して、それに合わせてツチドくんがその場で鼻歌を歌った。
ところが、ツチドくんはかなり音痴で(彼は否定するのだが)、よく音程を外し、ヘンテコなメロディを歌った。
ツチドくんは、僕のギターのアイディアに対してダメ出しをし、僕はツチドくんの作る歌メロに対してダメ出しをした。そんな感じで作業を進めた。
でも、そうはいっても、お互いが身に付けている感覚や技術に限界があるので、適当なところで妥協した。
そういったことの繰り返しで、何曲か作った。

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メタル好きの僕と、ポップス好きのツチドくんが、対等な立場で中間点を探していたら、結果として、シャズナのようなビジュアル系を連想させる曲が出来た。
それが「チャイム」という曲だ。




CHIBI
1997~

(20歳、ギター歴4年頃)


(2006/7/12)

■■ NO.4 ■■

大学二年生になり、それまで自分を可愛がってくれた「メタラー残党」の先輩達が卒業したり、就職活動等に入ってしまった。その代わりに、新入生が入部がしてくる。
ここで出会ったのが、新入生ボーカルの遠藤くんだ。
遠藤くんは、今まで僕がやったメンバーとは、あきらかに違っていた。

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遠藤くんは、高校まではハンドボール部に所属していて、何か大きな大会の選抜メンバーにも選ばれていたらしい。
しかし、大学に入学した際、とりあえずハンドボール部を訪ねたものの、「先輩の態度が気に入らない」という理由で、その先輩にタバコを投げつけて帰ってきてしまったそうだ。
なんとなく、人生に変化が欲しかった時期だったのかもしれない。
何はともあれ、そんな遠藤くんが僕たちの作詞作曲部サークルに入ってきた。

当然のことながら、遠藤くんはそれまで音楽をやったことはなかった。
正真正銘の初心者だ。
しかし、半年ぐらいでいくつかのコードを覚えて、曲を書くようになっていた。
遠藤くんは、スピッツやミスチルといったポップスや、クラブミュージックが好きだった。

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さて、僕はというと、「メタラー残党」の先輩達がいなくなってしまったので、僕と一緒にメタルを演奏してくれる人が見当たらなくなってしまい、困っていた。
サークル内で音楽活動を続けるためには、方向転換が必要な時期だった。
そんなとき、遠藤くんが「オレと一緒にレコーディングしませんか?」と言ってきたのだ。
一人で作曲を続けていた遠藤くんも、自分の曲をちゃんとした形で録音してみたくなったのだ。
当時の僕は非常に音痴で、自分で歌うことが全く出来なかったので、遠藤くんが自分の書いた曲を歌ってくれるのは大歓迎だった。
ただし、遠藤くんは僕の曲を歌いたいわけではなくて、自分の曲を録音したがっていた。

今までの僕は、自分の書いた曲をライブでやったりレコーディングするために、他の人に手伝ってもらう立場だった。それが今度は逆転したのだ。

僕も自分の曲をとにかくレコーディングしたかったので、話し合ったうえで、「お互いの曲を半分ずつレコーディングしよう」ということになった。
ただ、お互いの曲とはいっても、僕は
リフだけ書いて、歌メロや歌詞は遠藤くんに一任することになったので、僕の主な仕事は、曲を書くというよりも、遠藤くんの持ってきたコードと歌メロに、どうアレンジを加えるかということだった。

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このレコーディングは、自分にとってかなり難しいものだった。
遠藤くんはポップスが好きなわけだが、僕はそれまで、スピッツもミスチルも聴いたことがなかった。どちらかといえば、そういう音楽を軽視していたのだ。
一方、僕はメタルが好きなわけだが、遠藤くんはレインボーもMSGも聴いたことがなかった。
どちらかといえば、そういう音楽を軽視していたのだ。
唯一のお互いの共通項は、徳永英明だった。

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この遠藤くんとの活動で、僕は生まれて初めて、「他人の書いた曲をアレンジする」という作業に関わることになった。遠藤くんに色々とポップスを聴かせてもらったり、また、「どの部分のどういうところが好きなのか」ということについて、色々と説明してもらったりした。
それを踏まえたうえで、僕は遠藤くんの曲をアレンジするのだが、ここで色々とダメだしを食らった。
「それ、全然ポップじゃないっスよ。メタルじゃないっスか」というセリフは、何度も言われた。
この頃から僕は、ドラムパターンも全て自分で考えて打ち込むようになっていたのだが、ドラムについても色々と文句を言われた。
「それ、シンバル多すぎッスよ」という言葉は、今でもよく覚えている。
その時は、自分では多くないと思っていたのだが、「満月の影ふみ」という曲を聴くと、たしかに、笑ってしまうぐらいシンバルが多い。

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僕はポップス初心者、遠藤くんはメタル初心者。
そんな感じだったので、二人が協力すると、ちぐはぐな曲がたくさん出来た。
でも、お互いとても熱心だったし、それが楽しかった。
「プラスチック・フラワー」のライブ音源は、当時の僕たちの「気合い」が凝縮されている感じがして、とても気に入っている。




JUMBO KING
1996~

(19歳、ギター歴3年頃)


(2006/7/12)

■■ NO.3 ■■

「ジャンボキング」は、「サンダービーム」のドラマーである稲葉先輩と自分が中心になって結成したバンドだ。
自分にとって稲葉先輩の存在は、かなり大きい。

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稲葉先輩は当時大学3年生。小学校の頃はイギリスに住んでいて、そのイギリスでラウドネスを体験したそうだ。その頃からギターを始めており、ギター歴はすでに10年以上。ラウドネスの曲におけるメジャーな曲は、ほとんど完璧にマスターしていて、とても上手かった。
ただ、プロを目指すとか、そういったことは全く考えていなかったみたいで、大学に入学してからはベースやドラムにも手を出していた。純粋に、音楽を楽しんでいた人だった。
(下の音源の「リベンジャー(LIVE)」の音源を聴いてもらえばわかるが、ドラムもかなり上手い)
その稲葉先輩は、自分をとても可愛がってくれた。

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「ジャンボキング」や、その前身である「サンダービーム」での曲の書き方は、基本的にバンドでジャムりながら打ち合わせをして作るというものだった。
僕がギターを弾いて、それに合わせてドラムやベースラインをメンバーにつけてもらうのだ。
稲葉先輩との曲作りのやり取りで、今でも覚えていることがある。
僕がスタジオでギターリフ弾いてを聴かせたところ、「これは食ってるのか?」と稲葉さん
が聞いてきた。
しかし、僕は「食っている」という意味がわからなかった。
「食っている」というのは、フレーズの頭が前の小節の後ろ(裏)から始まるということなのだが、僕はこれを全く意識せずにやっており、また、譜割としても理解していなかった。
そのため、フレーズ全体の小節数が合わなくなってしまうことがよくあった。
しかし、小節数が合っていないということすら僕は認識できなかったので、適当に早く弾いたり遅く弾いたりしながら、ドラムのビートに合わせていたのだ。
稲葉先輩は、そういう音楽における僕の認識不足な点や誤りを見つけると、笑いながらちょっとずつ修正してくれた。
ただ、あまり細かく僕にアレコレ言ったりしなかった。
大抵のことは、たとえ変なアイディアであろうと、笑いながら無理やりにでも適当に合わせてくれたのだ。

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この頃から、僕は本格的にドラムマシンでの打ち込みを勉強するようになった。
それまでは、最初にギターを入れて、そのあとでドラムマシンのパッドを使って、リアルタイムで叩いて録音していたのだから、凄い進歩だ。
ドラムマシンの勉強は、スタジオで稲葉先輩が叩いたドラムを再現するところから始まった。
稲葉さんがドラムを叩くところを目で見て、また、録音されたバンドの練習テープでの稲葉さんのドラムを聴いて、そうこうしているうちに、ドラムフレーズの構造らしきものがわかってきた。そういった意味でも、稲葉さんの存在は、自分にとって大きい。
(ただし、下の音源「リヴェンジャー」のドラムは、バンドのベーシストだった原くんという同級生が入力してくれたもの)

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「ジャンボキング」の頃、僕はドリームシアターやクイーンズライチにハマっていた。
「難しいテクニックを駆使」したり、「複雑な構造の楽曲」を演奏するというのが、なんとなくカッコよく見えたのだ。
また、この頃、ようやく「拍子」や「小節」というのが理解できたので、作曲において「変拍子」を
使ってみたいという欲求があった。
しかし、当時の僕のテクニックや知識はたかがしれていたので(今でもそうだが)、やっていたことは、とてもドリームシアターのフォロワーなどと呼べるようなものではなく、演奏するのが無意味に大変な曲ばかりだった。

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このバンドのベースの原くんは、本来ギタリストだった。しかし、原くんも「ドリームシアターのファン」ということだったので、僕がかなり無理を言ってベースを弾いてもらった。そして、ボーカルの田中くんは、もともとドラマー志望の同級生だった。これもかなり無理を言って、なんとかメロと歌詞をつけてもらい歌ってもらった。自分が所属していた音楽サークルの人数は100人を超えていたが、メタル人口は非常に少なかったので、こういった強引な「パート・チェンジ」を行ったりしなければ、メタル・バンドそのものが成立しにくい状況だったのだ。
当然ながら、「パートチェンジ」を強いられた二人は、とても苦痛そうだった。そりゃあ、そうだろうな…。
しかし当時の僕は、メンバーが楽しめているかどうかということより、何が何でも自分の曲をカタチにして人前で発表したいというエゴのほうが強かった。

なにはともあれ、僕は、みんなに「オンブにダッコ」状態で、なんとかかんとかバンドとして、一緒に演奏してもらっていた。




THUNDER BEAM
1996~

(19歳、ギター歴3年頃)


(2006/7/12)

■■ NO.2 ■■

「最初の三年間でその人のプレイスタイルが決定され、それ以降、それは変わることがない」というのは、ジョン・コルトレーンの言葉だ。ちょうどこの頃が僕の三年目にあたるわけだが、どうだろう??

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なんとかかんとか受験をのりこえて、無事大学へ入学。そして上京。
そこで僕は、
東京コンプレックスのようなものを味わうことになる。

僕は岐阜の田舎町で育ち、僕にとってはヤングギターとバーンが唯一の音楽情報源だった。
(それ以外の雑誌を読んでいる人は、まわりにはいなかった)
そういった雑誌を読んでいる限りでは、今一番ナウなバンドというのは、ガンズアンドローゼス、ミスタービッグ、そして、エクスストリームだった。

ところが実際のところ、時代はメタル衰退期で、ニルバーナのようなグランジや、グリーンデイのようなパンクが流行っていた。
「オレは完全に遅れてる…」、「オレは田舎者なんだ…」、そういうことを如実に実感したのが上京した瞬間だった。

◆ ◆

大学で、「作詞作曲部OPUS」というサークルへ入部する。
ここは部員が100人以上在籍する大きなサークルで、新入部員もたくさんいた。
個人ごとの好きなジャンルもバラバラで、ここへ入ったことで、今までほとんどメタル一辺倒だった自分の視野が広がった…、というよりも、無理やりにでも広げなければサークルでの話題や活動についていけなかったのだ。

サークルとしても、ちょうど時代は転換期だったようで、一番上の学年には「メタル全盛時代の残党」ともいえる人たちが生き残っていて、学年が下るほどに、ポップス、それも洋楽ではなく、邦楽を好む人の割合が多くなっていた。
ミスチルやイエローモンキー、そしてスピッツなどが流行っていたので、その影響が大きくあった。

◆ ◆

なにはともあれ、入部当時、生粋のメタル好きであった僕は、「メタラーの残党」である先輩達に可愛がってもらえた。
そうしてサークル内で組んだ最初のバンドが、この「サンダービーム」だった。メンバーの構成は、僕が1年生で、あとは3年生が二人と、4年生が一人の四人組だ。

◆ ◆

高校での僕は、自分で何もかも好きなようにやって、自分が全てを仕切っていた。
ところが、当時の僕は、熱意はあったけれど、完全に自分独自の感覚だけでギターを弾いていたので、「ペンタトニック」すら知らなければ、「小節」や「拍子」という概念も知らず、完全にメチャクチャだった。
先輩方としては、「熱心な後輩に、音楽の作り方を教える」ぐらいのつもりでバンドを組んでくれたのではないかと思う。
ただ、僕はいつだって、いっぱしのアーティスト気分だったので、自分の出すアイディアに、先輩から何かを指摘された際に、上からものを言われているような気がして不機嫌になったこともあった。
年齢が下で、なおかつ、小節も拍も理解していないのだから、そりゃあ指摘されて当然なのだが、それでも僕は、「自分のほうが音楽的な
才能は上だ」と思っていた。
僕の性格というか本質には、今でもそういうところがある。

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メンバーの先輩達は、ギターのアイディアについては、僕のアイディアを最大限に尊重してくれた。
しかし、当時の僕が作るリフや曲は、小節からハミ出ていたり、テンポがバラバラのピースを脈絡なくくっつけていたことがあったので、きちんとバンドで演奏できるようにするためには、最低限それを修正する必要があった。
先輩達は、僕の作ったリフのイメージがあまり壊れないようにしつつ、細かな修正の指示を出してくれた。
こういった先輩と接する機会をいただけたことは、今から思えば涙が出るくらいありがたいことだ。
しかし当時の僕は、「上から命令された」「自分のサウンドを変えられた」と、非常に不機嫌だった。
ただ、そのときの年齢っていうのは、そういうもんじゃないかとも思うのだ。


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SUIZENZI
1994~

(17歳、ギター歴2年頃)


(2006/7/11)

■■ NO.1 ■■

僕が田舎の岐阜県で初めて結成したバンド、それが「SUIZENZI(スイゼンジ)」だ。
(※「未亡人は17才」のイントロでは、当時の僕の岐阜弁丸出しのトークをそのまま収録)

「スイゼンジ」というバンド名は演歌歌手の水前寺清子からとったのだが、なぜ水前寺清子から名前をとる必要があったのかは上手く説明できない。
10代の少年特有の感覚から導きだされた結果だとしか言いようがない。

「SONG FOR YOU」は、自分にとって、とても思い出深い曲だ。
この曲は、高校の文化祭のテーマ曲募集のために書いたもの。
僕らの高校では、生徒たちによるオリジナル楽曲を文化祭テーマ曲にするのだ。
まず先に全校生徒から歌詞を募集し、これが公表され、投票によって採用案が決定する。
次に、その採用された歌詞に伴奏とメロディーをつけたものをテープで募集し、これを昼休みの全校放送で一週間流す。
そして、再び投票がおこなわれ、文化祭テーマ曲が決定するのだ。
僕らのバンドがこのコンペに参加したのは伴奏とメロディをつける段階からなので、歌詞は書いていない。

演奏を聴けばわかる通り、もう、何もかもがメチャクチャなのだが、それが校内ではウケた。
自分たちの曲は惜しくも投票で二位になってしまったのだが、校内における自分たちの知名度は、あきらかに高まった。
これが文化祭当日における集客の呼び水となった。
文化祭で演奏した際には、体育館が「ソーング、フォー、ユー!!」の大合唱になり、本当に感動した。
ビデオにとっていたので、その様子は今でも確認することができる。
の宝物だ。

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バンドはメンバーを変えながらも、高校卒業後も同窓会的なノリで、細々と3年間存続した。また、高校の見ず知らずの後輩が、この「SONG FOR YOU」をカヴァーしたりもしてくれて、とても嬉しかった。
曲も演奏もメチャクチャだったけど、練習ではいつも腹を抱えて笑っていたし、ライブをやれば必ずみんなが喜んでくれた。
このバンドについての思い出は、本当に楽しいものばかりだ。

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この頃書いていた歌詞は、内容がちょっと差別的だったり、冷酷だったりした。
その当時は、誰が聴いてどんな気持ちになるのかなんて、全くおかまいなしだった。
若いときって、ほとんど本能的に、ちょっと残酷なところがあると思う。


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